昨年の高校3年生は例年と少し違うことがあった。中学2、3年生の時、中学校の全国大会で2年連続優勝していたことだ。その当時、ボクは中学サッカー部のスタッフで5年連続して全国大会を経験することができたが、その集大成となったのがこの学年だった。
彼らが中学2年生の時、鹿児島での全国大会では優勝できるような実力はなかったが、組み合わせにも恵まれ、苦戦しつつも決勝まで勝ち進んだ。決勝戦は再延長の末、スコアレスドロー。両校優勝という形で幕を閉じた。
新チームになると、前年度のレギュラー4、5人が中心となり新人戦と春季大会で優勝。夏季大会を待たずに関東大会の出場権を獲得した。関東大会は準決勝で敗れたが、全国大会では5試合で1失点と、内容的には順調すぎるほど順調に単独優勝を果たした。この年度、公式戦で負けたのは関東大会の水戸三中と、高円宮杯東京都予選決勝リーグでのFC東京ジュニアユース、久留米FCだけだった。
しかし、優勝した時、林監督は「全国大会での優勝が高校での飛躍につながらない」と断言していた。中学校のサッカー部と高校のサッカー部には、大きなレベルの差があることが分かっていたからだ。
中学生の真の日本一は、クラブと中学校が頂点を競う高円宮杯の優勝チームである。そして、能力の高い中学生の多くは、クラブチームでプレーしている。Jリーグ発足以来、この傾向に拍車がかかったと言っていい。
暁星中学サッカー部は全国の中学校の頂点に立ったが、全中学生の頂点に立ったわけではない。
8月の全国大会で優勝した後、9月から高円宮杯の東京都予選が始まった。暁星中学はトーナメントを勝ち進み、決勝リーグに駒を進めた。4チーム中、3チームが関東大会に進めるリーグ戦で、最終戦に引き分ければ関東大会出場が決まるところまでこぎ着けていた。
久留米FCを相手に、試合の主導権を握り続けた。引き分けも見えてきた。ところが、試合終了間際、相手にゴールをを許し、まさかの敗戦を喫した。1分け2敗。最終順位は4位。中学最後の公式戦は、悔しさしか残らない敗戦で終わった。
中学校のサッカー部に、優秀な中学生プレーヤーが一極集中することはまずない。公立中学校は当然だが、私立の中学校でも優秀な子供を集めている学校はほとんどない。併設している中学から育てているのは進学校くらいのものだ(そして、進学校で選手権に出場する学校はかなり珍しい)。
高校選手権のパンフレットで、出場校の登録メンバーの前所属チームを見れば一目瞭然だ。その多くは、ジュニアユースのクラブチームが記載されている。
クラブチームでプレーしていた中学生たちは、高校生になると、その多くが高校のサッカー部へと鞍替えする。理由は簡単。高校選手権を目指すためだ。
最近はJリーグのユースチームも優秀な人材を集め、トップチームにもプロ選手を送り込むようになったが、ユースチームでプレーできるのはほんの一握りの優秀なプレーヤーに限られる。受け皿になっているのが高校であることは言うまでもない。
こうして、高校サッカーのレベルは、中学校サッカーとは比べ物にならないほど高くなる。
しかし、林監督が危惧していたのはもっと別のことだった。それは、中学で優勝を経験した達成感がサッカーへの満足感・優越感につながり、高校で必要になる技術・体力の更なるレベルアップの妨げになるのではないかという不安だった。
昨年のチームに限れば、監督の不安は杞憂に終わったのかもしれない。新人戦、関東大会、インターハイ、高校選手権の都大会で、全てベスト4以上の成績をおさめたのは暁星高校だけだった。全国大会への出場は叶わなかったが、新人戦の準優勝でプリンスリーグ(関東地区)の出場権を得て、関東エリアの強豪校、強豪クラブとわたり合えたことも考えれば、充実した年だったとも言える。
しかし、中学校の全国大会で決勝のピッチに立った2人のセンターバックとボランチの生徒たちは、西が丘のピッチに立つことはなかった。
彼らは高校でもサッカーを続けていたが、最終的にレギュラー争いには加われなかった。手を抜いたとは思わないし、ある時期にはAチームでプレーしたこともあった。しかし、レギュラーポジションを奪えなかった原因がスピード面での不安だったとは、なんとも皮肉だった。暁星中学の守りの要、不動のレギュラーたちが、高校サッカーのスピードには対応できなかった。それも昨年の暁星高校サッカー部の現実だった。
<続く> |
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